凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【67】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

⁂⁂⁂ 蘭州⇒西寧へ行くはずが。。。やむをえずルート変更(涙) ⁂⁂⁂


広州の宿で中国地図を広げながら考え込んだ。
青海湖が見たいんだよなぁ。
でも12月のこの時期寒いんだろうなぁ。人も少なくて危ないかなぁ。
そういえば、お金は大丈夫なんだろうか。お金


お財布の中や、靴下の中、腹巻の中にある現金やら、
トラベラーズチェックを片っ端から取り出して数えてみた。
あれ?ちょっと旅行前の計算が違ってたか?計算機
現地に降り立って、色々と計算すると事前の見積がかなりいい加減だったことに気づいた。
これはやばいぞ、あんまりお金が残ってない!!!お金お金


「青海湖」という素敵な漢字からイメージする青く海のように壮大な湖を夢見て、湖
日本から出てきたけど、そこへ辿り着いてまた日本に帰るだけの
お金が足りないことが判明。


残念無念。
こりゃ、仕方ないさ。駄目ならルート変更するのみ!
自由旅行の潔さ。
こうして、私は青海省の青海湖を目指すことを止めた。
そして、四川省を次の目的地と決めたのだった。


〜〜続く〜〜


*トラベラーズチェックとは:旅行や出張など海外渡航の際に、
多額の現金を持ち歩かなくても済むように発行される外国旅行者向けの小切手。
日本国内では2014年3月31日を持って全ての販売が終了した。
(wikipediaより)

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【66】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

2種類あった中国の通貨


広州では、ちょっとしたハプニングがあった。驚き


当時、中国のお金には2種類あった。一つは、中国の人たちが通常使用する人民元。もう一つは、外国人などの特定の人達しか持つことができなかった外貨兌換券。日本円を中国のお金に交換すると、外貨兌換券がもらえた。外貨兌換券では、一般の中国の人達が買うことができないような品物を買うことができたのだ。おそらくそれは外国製テレビであったりと、ちょっとした高級品というものだったと記憶している。テレビ


ちょっと特別な外貨兌換券なので、中国の人でこの外貨兌換券を欲しいと思う人は少なくいた。北京では人民元と交換してくれないか、と言ってくる人の話をいくつか聞いたことがある。


私は事情があまり分からない若造だったので、こういうことにはあまり触れないようにしていたのだが、急遽どうしても手元に人民元が必要となったのだ。


広州駅から少しだけ離れたところに商店街が立ち並んでいた。ここなら、外貨兌換券を人民元に交換することはすぐできるだろうと思った。


お店の店主の男性に早速聞いてみると、外貨兌換券を見て不思議そうな顔をしている。お金そうかと思ったら、こんなもの知らん。金じゃない。と言い出す。彼の顔をまじまじと見たが、彼は本当にこの外貨兌換券の存在を知らないようだった。こんなおもちゃで俺をだまそうというのか、くらいな勢いになってきそうだったので、すぐにその場を離れた。私はとても驚いた。北京では、すぐに交渉成立しそうなものを、交渉を拒否されるとかいうのではなく、知らないということで交渉にすら辿りつけず幕が引かれたのである。


このとき分かったのは、中国にあった2種類のお金の存在について、知らない人もいるんだということ。それだけ、外貨兌換券というのは特別なものなわけで、私は特別な権利を持っているということ。したがって、むやみやたらに提示したり、(当時私はむやみやたらでなかった、ただ無知だっただけ。)自らの特権をおおっぴらにしてはいけないのだということだった。


この外貨兌換券、1995年に廃止となり、お役目が終了した。お金お金
あのときに、どのように人民元を工面したのかは忘れたが、そのおかげで外貨兌換券は交換されずに私の手元に残ったのだろうか。私の当時のアルバムの中にそのままのものが残っているのだった。



〜〜〜続く〜〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【64】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

⁂⁂⁂ よそから入ってきたばかり感たっぷりの広州の街中ファーストフード ⁂⁂⁂


 今回の広州での滞在は川沿いの沙面付近。とても落ち着いた雰囲気のある街だった。一気に好きになった。好き好き香港に近いせいか、これからどんどん香港の流行のものを取り入れていこうという気合が感じられた。

 私の目に移ったそうした動きは、食べ物にもよく表れていた。当時、北京でようやく数年前に1号店が開店したマクド●●●。マクドナルド香港では当たり前のようにどこでも見つけることが出来た。ここ広州では、マクド●●●をあたかも真似ているローカル系のファーストフード店を見つけた。

 昔からの広州の食文化に大きく影響を与えたことは間違いないだろう。ハンバーガーなど軽食が売られていた。セットメニューはどこぞのそれと良く良く似ていた。店内には簡易的なテーブルとイスがセッティングされている。まだ殺風景な内装ではあったが、リバーサイドの店舗内にサンサンと日が射していて、これまで味わったことのない、日本でもない、中国でもないような居心地に包まれた。

 まだそんなに繁盛していなかったが、数年後には日本のマクド●●●や●●タッキーのように人がいつでもいるような風景に変わっていくのだろうと予感した。ケンタッキーでもでも、それには味の改良は不可欠課題なのだが。

〜〜〜続く〜〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【63】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

✴✴✴ホテルは安全、でも夜眠れん!!  In 広州✴✴✴


 宿で手配してくれていた中国入境ビザが出来た。中国大陸上陸の時が来た。前回の旅と同じように広州から入ることにした。大きな中国地図を見れば、広州はすぐ隣りのようだが香港から入ると、明らかに雰囲気が違っているのが分かる。大きな中国に来た!という感じ。「また広州に来たよ〜〜!!!」と心の中で叫んだ。じわじわと前年度の感動が蘇ってきた。嬉しい嬉しい


 いつものように宿探しから始める。前回泊まったあの素敵なホテルも良かったが、貧乏旅行なので、なるべく低価格のところを探す。ガイドブックを見ていると、ユースホステルなる文字を発見。しかも川沿い。安全性に問題なさそうだ。安全


 重いリュックを背負ってかなりの距離を歩いてホテルがようやく見つかった。それは白地の壁の割と清潔そうなホテル。お値段は100人民元/日。双人房(いわゆる2人部屋)しかなく、ベッド1台につき、50元ということだった。ここはドミトリーなのでそういう値段設定だったのだろう。もしも旅の途中で仲良くなった人がいて、部屋のもう片方のベッドをその人が使用するとしたら、お値段は半額となる。


 広州は気候が素晴らしく良かった。またホテル内も白い内装で固められていて清潔感たっぷり。広州と言えば、農民工たちの渦の中でジロジロと大きな目ん玉で見られ、恐る恐る通った広州駅前を思い出してしまうが、その感じとは全く別世界だった。


 それにしてもホテルの若い女性従業員は仕事が結構いいかげん。思い出したけど、当時それほど大きなホテルでもない場合、部屋の鍵は服務員といわれる人たちが開けていた。鍵ホテルのどの階にもエレベータ付近にフロントが設けられお客さんが外から戻ってくるとそのお客さんの部屋の前まで一緒に行き、鍵を開けてくれるのだった。それって24時間態勢のはず。ところがフロントに誰もいないことが多いのだ。どこをほっつき歩いているのか。部屋に入れず待たされること数知れず。呆れる


 夜は夜で遅くまでキャッキャと騒いでいる。私の部屋がフロントの真ん前だったので、うるさくて眠れやしない。こちとらお客なんじゃい。睨みをきかせに部屋のドアを開けると、昼間ひょんなことで知り合った旅人の台湾男子がフロントの若い子たちにちょっかいを出している〜!お客の方がこれじゃ、どうしようもないわ。安宿ってこういう目に多々合うよな。何が面白いんだか分からないが、そのいちゃいちゃは一晩中続いたのだった。あ〜、迷惑。困る困る

〜〜〜続く〜〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【62】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

中国入境ビザを取得するまでの間、香港を気ままに歩いた。ガイドブックに載っているような普通の観光地にはいくつか足を運んだ。香港にまだ啓徳(カイタック)空港があったので、途中何回か飛行機が香港の上空をすれすれで飛んでいるのを見た記憶がある。


 取り壊されていまは存在しない九龍城と呼ばれていた「東洋の魔窟」に行ってみたいと思ったが、鈍感で当時は全くの怖いもの知らずの私でも流石に無謀と気づき、実際に足を運ぶことはしなかった。取り壊されると知っていれば、もしかしたら、行っていたかもしれない。


 九龍城に行かないかわりにどこか香港ならではのところをと探すみると、、、あった、あった。「重慶マンション」!!無法地帯といわれた九龍城とは規模も状況も異なるが、この雑居ビルもなかなか面白そう。とにかく香港の独特な雰囲気がぎっしりつまったところ。私が女神と崇めるFei Wong(中国の有名な女性歌手)が出演する香港映画『恋する惑星』の舞台にもなった。絶対行きたい!


 マンションの入り口にはいくつかの両替屋が店を構え、店員がこちらをジロリと見ている。それを横目に通り過ぎ2階、3階へと上がる。うわぁ、怪しい〜。突撃レポーターさながら、まさに謎の雑居ビルに突入といった様子。あきらかに別の国から来ていると分かる、目のギョロギョロとした人達がうろうろしている。彼らは何を待っているのか、何をしているのかよく分からない。こういう感じが当時私がイメージする香港のもう一面だった。


 勇気を振り絞って、さらに上階にあるインド人が経営するカレー屋でカレーを食べてみた。雑居ビルの中にちょっとした小料理屋もある。屋台にあるようなテーブルとピンク色の腰掛が雑多に並ぶ。初めて味わう本場(?)の味。日本のカレーと全然違う。いいな、こういう異文化体験。ていう雰囲気では実はなく、できれば早く食べ終わって此処を立ち去りたかった。周りにはこういうへんてこな外国人女性などいないし、相変わらず強面の人が数人うろうろしているのだ。やっぱり重慶マンション、怖かった。御馳走さま〜をして、早々にビルを離れた。


 そういえば、伝説の香港安宿では、旅人からいろいろと怖い噂話を聞かされていた。香港では、デパートが危ない。洋服を買うつもりで試着室で試着をしていると壁が急に開いてそのままさらわれてしまい、挙句の果てには遠いところに売られてしまうのだ。とか。中国での怖い話もあった。影のルートで行われる人身売買の話は一人旅中で私の行動をいましめる指針になった。


 そうだ、母親に誓ったんだ、無事に日本に帰ってくると。しっかり旅をしなければ。


*数年後に、沢木耕太郎氏の『深夜特急』(テレビドラマ版)でおそらく重慶マンションの中の映像らしきものを見ることができ、非常に興奮したのを覚えている。


〜〜続く〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【61】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜


伝説の安宿で出会った人の中に、一人の男性写真家さんがいた。カメラこれから雲南省に行き、お祭りを撮影するのだと。撮影の旅ではいつもこの安宿を利用するらしく、その写真家さんの写真集が置いてあった。カメラ見ると、独特の色合いを醸し出す雲南の民族衣装を着た人々の姿があった。素敵な作品だ。

 当時雲南省の奥地は外国人に開放されている地域が少なかっただろうと思う。この写真家さんはこれから一人で雲南省の山奥に行って、何日も何日もそこでシャッターチャンスを待っているのか。なんとも途方もないことをしているなぁ。

 特に変な意味はなく、この人に付いていったら、通常なかなか行くことができないところへ行くことができ、さぞ面白い旅になるかもしれないと一瞬だけ思った。しかし、やっぱり私にはそんな途方もないことはできないと悟り、断念した。

 日本に戻ってから、本屋にこの写真家さんの写真集がいくつか並んで置いてあるのを見た。本当時写真家さんの作品には雲南省のものが多かった。後に、中国以外のアジアの各地を巡り、さらにいくつもの写真集を出版したようだった。


〜〜続く〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【60】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

 

 誕生日はクリスマスの一週間前。天気は晴。日本は師走で年末気分。お正月母から買ってもらったモコモコの黒いジャケット(「凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【57】」にて記述) を着た私は香港へ向かった。前回はとなりに友人がいたが、今回は一人。しかも、寒い冬。これからやりたいことをやりに行くのだから、心ウキウキかというと夏のときとは少し違って、心に薄雲がかかったような出発だった。雲


 ところが香港に着くと、私に纏わりついていた薄雲はすっかり晴れた。晴れ気候が暖かいし、何と言っても1年前の香港にすっかり魅了されてしまった私はまたここに身を置くことができる嬉しさでたまらなかった。


 宿は日本人が経営する上海街にあるドミトリーの安宿に決定!一泊千円ちょっと。ここでは、中国入境ビザの取得手続きをサポートしてくれるので、ビザ取得までは、ここを拠点に香港を回ることができる。この安宿、当時からバックパッカーが集う伝説の安宿として有名だった。中に入ると、中国の大学の学生寮で使用されているような二段ベッドがところ狭しと置かれている。数年前のガイドブックを見ると、全18ベッドあるらしい。一応、女性エリアと男性エリアに分かれていた。男女


 夜は、カーテンのようなもので仕切られていたエリアも昼間は仕切りを取っ払い、男女分けへだてなく、交流ができるようになる。この間いろいろな人に出会った。その多くは日本人。中国に旅に出るという人が多かったため、もっぱらの話題はこれからの旅のこと。知らないもの同士でもすぐに仲良くなった。男女


〜〜続く〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【59】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

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新年快乐,万事如意!
(xinnian kuaile, wanshi ruyi!)

今日は旧暦のお正月の二日目。
中国式の挨拶をしました。
2017年鳥年が皆さまにとって素敵な一年のなりますこと、
心よりお祈り申し上げます。鏡もち
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当時5人家族だった我が家。

 腹の座った支持表明のもと、反対はしていたけれども最後は母に押し切られたじいそして孫を心配して何度も私の中国一人旅を止めようとしていた祖母あちゃ数か月の間ざわつく家の中にいながら、止めても無駄なのだろうということが初めっから分かっていた3つ下の弟りゅうた

 最終的には、家族皆からの支持をもぎ取ってしまった形で、当の本人はそれほど大きなこととは考えもせず、ただただ自分のしたいことをしたいだけといった理由で突き進もうとしていた。

 祖母は、どんなにこの日が来ないでほしいと願っていただろうか。今思うとひどい孫であったと猛省してしまうが、そんな祖母の切実な想いにも寄り添うことなく、私はちゃくちゃくと旅の準備を整えていた。だってどうしても行きたいんだもの、という強い意志が先立っていた。それを断行する日が刻一刻と逼った。

 そして、22歳となったその日に中国一人旅に出発したのである。スーツケース

 前日手渡してくれた、22歳の誕生日と、これから私のする無謀且つ大胆な行いに対する応援を含めた家族皆からのメッセージカードを胸に!女の子

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【58】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

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先日母親とスカイプで通話していた時の話。
あんたが中国に一人で行くって言ったとき、お祖母ちゃんから行かせないでくれよ、と何度も言われたんだよ。と母。20数年前に他界してしまった祖母。決して祖母に対して私はいつも優しかった訳ではなかったが、祖母との思い出は沢山沢山ある。祖母にとっては、それはそれは可愛くない孫であったはずの私だが、中国一人旅にはさすがに心配したのであろう。
また、お父さんも反対してたよ。とのこと。そうだったかなぁ?すっかり忘れている。
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 ある日、祖母から真面目な顔をして、「凛ちゃん、中国に一人でなんか行かないでくれよ。」と言われた。とてもびっくりした。えっ?そんなに心配するのかなぁ?大正時代に埼玉で育った祖母の頭でイメージする中国はどんなものだったか、想像することはできないが、女の子が一人で外国に行くなんぞ、考えられなかったのだろう。

 実家は祖母がこの家にお嫁に来たときに建てられた古い家。その畳の座敷にドデンと置いてある、買い替えたばかりのテレビの横で急に祖母に言われたのをよく覚えている。

 祖母はがばい婆さんのような教育者っぽいことは一切言わない。そればかりか、当時教育に悪い影響を与えかねないと世間から心配されていた「●時だよ、全員集合」の大ファンで、●村けんさんが少しばかりHなことを言ったりやったりすると、顔をテーブルに突っ伏しては大笑いするのをこらえていた。そんな俗っぽい、普通のお祖母さんだった。

 また祖母はいろいろなことに興味があり、新しもの好きで、地元に初めて●ーゲン●ッツ・アイスクリームが進出してきたときに、我先にと並んで食べた人である。また、私が家で私がお菓子を一人ポリポリ食べていると、決まって「凛ちゃん、美味しそうなお菓子だね。私にもちょっとくれや。」と言ってきた。私は、これまた「や〜だよ〜。あげな〜い。」と言うと、「いつも凛ちゃんは私をそうやっていじめるんだな。」と言っていた。

 あるときには、大正生まれの祖母に「スパゲティ」という単語を私が言って、それを紙に書いて欲しいといういじわるテストをしたりもした。案の定、祖母の答えはへんてこりんで、それに対して馬鹿にしたりしていた。
 
 私は祖母には遠慮がなかったと言っていい。共働きで学校から帰ると、祖母しかいなかったので、私のひどい態度を誰も叱ることがなかった。しかも、父母共に夜勤があり、交代で夜帰って来なかったことがあったため、私はそれが寂しくて寂しくて仕方なかった。きっとそんな思いが祖母へつらくあたる原因だったのでは、と自分で勝手にこじつけるのだが。

 そんな祖母も一人旅の当日にあてたメッセージにはこう記してくれた。

 凛ちゃん、無事にかって来て下さい。「ガンバッテ」
 



⋆⋆⋆次に続く⋆⋆⋆

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【57】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

母からの重みのある言葉がその日から頭にこびりついた。必ず帰国しなければならないのだ。心にそう誓ってから、冬の中国旅行における準備に入った。

 その母からの言葉↓↓↓↓↓
「お母さんはもう腹をくくったからね。中国に一人で行って凛子に何かあった時、親戚からどんなことを言われるか分からないけど、腹をくくったから、凛子もそのつもりで行ってきなさい。」

1.計画表を作った。
  およそ何日ころに中国のどこにいるか表を作って示した。今回は1992年12月17日に出発して、1993年1月10日帰国の計25日の中国旅行と決定!(今から24年前よ〜!)!!

2.中国地図を作った。
  予定訪問地へのルートを記した手書きの中国地図を作った。当初の予定では、香港→広州→蘭州→西寧→蘭州→成都→昆明→広州→香港となっていた。ところが、実際は全く違うルートになってしまった。びっくり

3.在中国日本大使館や香港総領事館、および大学教授の連絡先をまとめた。
  私に何かあった時の家族が連絡できる方法をまとめた。宿泊場所は全く決めていかなかった。(かなりのチェレンジャー〜!)キラほし

4.防寒服を準備した。
  冬の中国がどのくらい寒いのかあまり想像がつかなかった。とりあえず、母と一緒に池袋にある西口寄りのデパートで大学生としては少しばかり高級な真っ黒のダウンジャケットを買ってもらった。すごく手触りがよくて、暖かくて、このような無謀な旅の間このジャケットが必ずや私を守ってくれるだろうと確信した。ハート

5.旅行資金を準備した。
  前述の山手線大崎駅にあった日本語学校アルバイトで貯めたお金を掻き集めた。フライトチケットはすでに購入済みだったので、それを覗いて手元に20万円ほど用意した。そのうち、数万円は日本の銀行でトラベラーズチェックに変えておいた。万が一、現金を盗まれたり、なくした場合のために。20万円の中で、移動代、宿泊代、食事代などなどを捻出するわけだが、なにせ大学生の貧乏旅行。このくらいのお金で予定訪問地には行けると計算していた。しかし〜!旅が始まって数日ですでに、お金が足りない!ということを認識するのだった!果てさて、この先どうなることやら。冷や汗