凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【71】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

杜甫という人のことを初めて学んだのは、高校の漢詩での授業でだった。中国漢詩の先生は男性で、当時40歳半ばを過ぎたくらいだったのだろうか。●山先生と言った。漢詩や中国の科挙試験について異常なまでに熱を入れて教えてくれる先生だった。あまりの熱の入れように、引き込まれていったのを覚えている。ある時、先生は現代中国語を使って漢詩を詠んでくれたのだった。その中国語の発音がへんてこりんで、影で友達とくすくすと笑ってしまったのだが、もしかしたら私の中国語への興味の原点はあそこだったのかもしれないと今でも思うのである。ピョンとかチャンとか何かの音を表しているとしか聞こえなかった中国語が今ではそれが一つ一つ意味を持つものだと理解して、こうして現地で生活し、また仕事までしてしまっているのだから人生って不思議なものだ。


杜甫という人物は数々の有名な詩を詠んだ。そんな大人物は成都のここ杜甫草堂で4年間を過ごした。竹私はこのように自分の足で当時●山先生から教わった杜甫の住居に来ている。●山先生はあんなに好きだった漢詩や中国科挙の時代の遺跡にどれだけ足を運んだことがあったのだろうか。


私が高校3年時に大学で中国語を勉強することを選んだことに格別の想いがあったようで、●山先生はとても喜んでくれた。大学入学までの春休みの期間中にも中国語の特訓をしてやるからと、すでに高校を卒業したに私のために春休みにわざわざ学校まで来て特別授業を開いてくれた。●山先生は大学に入って、少しでも基礎があれば皆よりうまくなれるということで一生懸命教えてくれた。ただ、当の私ったら全く聞きなれない、宇宙人が発声するような発音に苦労した。●山先生が教えてくれたとおりに全然発音できない。下を巻いて発音?なんだこりゃ?もう~全然だめだ〜、などど家族に愚痴を言っていたような気もする。


その後大学に入学してあれよあれよという間に私は中国語にのめり込んでいった。あんなにおかしな音だと思っていたのが、私にとってなんとも心地よい音楽のような響きに変わった。●山先生には特にそのような報告をしていなかったのだが、数年後のある日、●山先生が亡くなられたという知らせが突然入った。耳を疑った。まだお若い先生なのに。聞くと、生徒の入試対策などで非常に忙しい日々を送っておられたそうだ。●山先生はいつも生徒のために尽くしていらっしゃった。そんな先生だからこそ、生徒の入試のために少しばかり頑張りすぎてしまったのかもしれない。とても残念だけれど、●山先生は先生たる生業を生涯真っ当されたんだと思う。


●山先生が今の私の姿を見たらなんと言うだろうか。きっと喜んでくれるに違いない。私がここで頑張ることがせめてもの●山先生への恩返しとなるなら、日々文化の違いに戸惑うことも清い心で受け止められる。偉そうでもなんでもなく、●山先生に代わって私が中国の地で色々なことを体験し、天国の先生に報告しよう。そして天国から見守っていてくださいね、先生。


〜続く〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【70】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

【陳麻婆豆腐のお店】


陳おばさんが発明した麻婆豆腐店が本場四川省にあった!感動した!嬉しい

中学生の頃から美味しいものには目がなく、食いしん坊だった私は当然のごとく、お店に入って賞味することにした。日本でも大人気の麻婆豆腐、その本家本物なのでお客さんでごった返しているかと思いきやおかしいことにお客は数えるほどしかいなかった。ま、そんなことは気にしない。とにもかくにも、早く食べたい!本場の麻婆豆腐が!嬉しい

なんとか注文をすまし、出てきた麻婆豆腐のお味はむむむ、これまで食べたことのない、何とも言えないものだった。美味しくないわけでは決してない。ただし、初めての味ともなると、なんとも表現できない。うわさでは聞いていたが、さらに舌がしびれてくる体験をした。これが、ザ・本家本元の麻婆豆腐というものか!この口の中に広がるなんともビリビリしてくる感覚がこれまでの私の狭い狭い常識を一気に覆した。びっくりびっくり

成都の旅では、辛い物を食べるたびに、この感覚に襲われた。これこそ中国四千年の深い文化の一つだとただただ脱帽だった。

陳麻婆豆腐を後にして、自転車でのお散歩はまだまだ続く。自転車

地図上で見つけた杜甫草堂を目指すのだ。

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【69】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

【成都って】

成都という四川省の都市に着いた。事前調査もそれほどせず降り立ったが、なかなかの良いところだった。

中国と言えば、何故か四川省という省の名前は私の頭の中で強く印象付けられていたのか、以前から四川省に勝手な親しみを抱いていた。12月、年の瀬も迫ってきた成都は中国の南方に位置するとはいえ、やはり寒かった。ただ、見るものすべてが新鮮で、寒さはそのときはそれほど問題ではなかった。

成都での定宿は交通飯店。またまた『地球の●き方』にお世話になった。ここはいまでもバックパッカーご用達のホテル。基本はドミトリーだった。数名が同じ部屋に宿泊する形式。もう自由気まま。西洋人と一緒の部屋にポンと入れられた。どの人も筋金入りの旅人。外人私なんか本当に子どもみたいだった。


宿が決まると、早速寒い冬にも負けず、外に出た。自転車をレンタルして、成都の地図を手にし、くるりと成都一周を試みた。成都はなんとうまい具合に円形に形作られた街で自転車で周るのには、ただ一周するだけでいいので非常に楽だった。自転車


しかも、街並みがいい。途中川なんかがあったりして、夕方になると川沿いに赤ちょうちんがあちこちに見られる。どうやら辛い火鍋のお店を意味するようだ。これがある種ノスタルジックな光景を映しだし、非常に素敵なのである。ちょうちんちょうちん
自転車でぐるぐるしていると、かの有名な『陳麻婆豆腐』のお店を発見!これは行かねば。と心に決めた。

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【68】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

【今ではもう体験できない中国国内線超小型飛行機〜〜】

広州から成都までの飛行機はとても小さかったのをよく覚えている。東方航空だったかなぁ。タラップから機内に入ると、中の大きさがどのくらいかがすぐに見渡せるほど超コンパクトだった。中国の飛行機について、当時まだ信頼がおけない時代だったものだから、旅行者たちの間でどこどこ行きのがよく落っこちるらしいとか、中国の飛行機には覚悟して乗りたまえ的な助言が飛び交っていた。飛行機飛行機


このちっちゃい飛行機を見た瞬間、本当に落っこちやしないかと無茶無茶怖くなった。でもここで諦めて乗らないわけにはいかない。自分の席を見つけると、そこには見知らぬ男性の中年の人が平気な顔をして座っている。「ここは私の席です。」と主張したが、空いてる席に座ればいいんだと言われ、しぶしぶ別の空いているところへ。すごくアバウトだよなぁ。乗っている人も田舎からそのまま出てきたような人たちばかり。飛行機飛行機


客室乗務員の女性も男性も私たちと同じ席に座っている。しかも、同僚どうしでくっちゃべってる。ちゃんと仕事してよ!!ただでさえ、落ちやしないかと心配なんだから!この客室乗務員たち、最後の最後までキャッキャと笑ったりはしゃいだりして、始終私を心配させた。


ところが、この恐ろしい飛行機での小旅行も無事に成都に着き、終了したのである。
当時は飛行機に乗ると、その航空会社からお土産なんかがあり、私は確か香りのどぎつい香水が入ったミニボトルをいただいたと思う。香水高級な乗り物としては、お粗末さはぬぐえないが、もう今では体験できない貴重な思い出にはなった。

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【67】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

⁂⁂⁂ 蘭州⇒西寧へ行くはずが。。。やむをえずルート変更(涙) ⁂⁂⁂


広州の宿で中国地図を広げながら考え込んだ。
青海湖が見たいんだよなぁ。
でも12月のこの時期寒いんだろうなぁ。人も少なくて危ないかなぁ。
そういえば、お金は大丈夫なんだろうか。お金


お財布の中や、靴下の中、腹巻の中にある現金やら、
トラベラーズチェックを片っ端から取り出して数えてみた。
あれ?ちょっと旅行前の計算が違ってたか?計算機
現地に降り立って、色々と計算すると事前の見積がかなりいい加減だったことに気づいた。
これはやばいぞ、あんまりお金が残ってない!!!お金お金


「青海湖」という素敵な漢字からイメージする青く海のように壮大な湖を夢見て、湖
日本から出てきたけど、そこへ辿り着いてまた日本に帰るだけの
お金が足りないことが判明。


残念無念。
こりゃ、仕方ないさ。駄目ならルート変更するのみ!
自由旅行の潔さ。
こうして、私は青海省の青海湖を目指すことを止めた。
そして、四川省を次の目的地と決めたのだった。


〜〜続く〜〜


*トラベラーズチェックとは:旅行や出張など海外渡航の際に、
多額の現金を持ち歩かなくても済むように発行される外国旅行者向けの小切手。
日本国内では2014年3月31日を持って全ての販売が終了した。
(wikipediaより)

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【66】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

2種類あった中国の通貨


広州では、ちょっとしたハプニングがあった。驚き


当時、中国のお金には2種類あった。一つは、中国の人たちが通常使用する人民元。もう一つは、外国人などの特定の人達しか持つことができなかった外貨兌換券。日本円を中国のお金に交換すると、外貨兌換券がもらえた。外貨兌換券では、一般の中国の人達が買うことができないような品物を買うことができたのだ。おそらくそれは外国製テレビであったりと、ちょっとした高級品というものだったと記憶している。テレビ


ちょっと特別な外貨兌換券なので、中国の人でこの外貨兌換券を欲しいと思う人は少なくいた。北京では人民元と交換してくれないか、と言ってくる人の話をいくつか聞いたことがある。


私は事情があまり分からない若造だったので、こういうことにはあまり触れないようにしていたのだが、急遽どうしても手元に人民元が必要となったのだ。


広州駅から少しだけ離れたところに商店街が立ち並んでいた。ここなら、外貨兌換券を人民元に交換することはすぐできるだろうと思った。


お店の店主の男性に早速聞いてみると、外貨兌換券を見て不思議そうな顔をしている。お金そうかと思ったら、こんなもの知らん。金じゃない。と言い出す。彼の顔をまじまじと見たが、彼は本当にこの外貨兌換券の存在を知らないようだった。こんなおもちゃで俺をだまそうというのか、くらいな勢いになってきそうだったので、すぐにその場を離れた。私はとても驚いた。北京では、すぐに交渉成立しそうなものを、交渉を拒否されるとかいうのではなく、知らないということで交渉にすら辿りつけず幕が引かれたのである。


このとき分かったのは、中国にあった2種類のお金の存在について、知らない人もいるんだということ。それだけ、外貨兌換券というのは特別なものなわけで、私は特別な権利を持っているということ。したがって、むやみやたらに提示したり、(当時私はむやみやたらでなかった、ただ無知だっただけ。)自らの特権をおおっぴらにしてはいけないのだということだった。


この外貨兌換券、1995年に廃止となり、お役目が終了した。お金お金
あのときに、どのように人民元を工面したのかは忘れたが、そのおかげで外貨兌換券は交換されずに私の手元に残ったのだろうか。私の当時のアルバムの中にそのままのものが残っているのだった。



〜〜〜続く〜〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【64】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

⁂⁂⁂ よそから入ってきたばかり感たっぷりの広州の街中ファーストフード ⁂⁂⁂


 今回の広州での滞在は川沿いの沙面付近。とても落ち着いた雰囲気のある街だった。一気に好きになった。好き好き香港に近いせいか、これからどんどん香港の流行のものを取り入れていこうという気合が感じられた。

 私の目に移ったそうした動きは、食べ物にもよく表れていた。当時、北京でようやく数年前に1号店が開店したマクド●●●。マクドナルド香港では当たり前のようにどこでも見つけることが出来た。ここ広州では、マクド●●●をあたかも真似ているローカル系のファーストフード店を見つけた。

 昔からの広州の食文化に大きく影響を与えたことは間違いないだろう。ハンバーガーなど軽食が売られていた。セットメニューはどこぞのそれと良く良く似ていた。店内には簡易的なテーブルとイスがセッティングされている。まだ殺風景な内装ではあったが、リバーサイドの店舗内にサンサンと日が射していて、これまで味わったことのない、日本でもない、中国でもないような居心地に包まれた。

 まだそんなに繁盛していなかったが、数年後には日本のマクド●●●や●●タッキーのように人がいつでもいるような風景に変わっていくのだろうと予感した。ケンタッキーでもでも、それには味の改良は不可欠課題なのだが。

〜〜〜続く〜〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【63】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

✴✴✴ホテルは安全、でも夜眠れん!!  In 広州✴✴✴


 宿で手配してくれていた中国入境ビザが出来た。中国大陸上陸の時が来た。前回の旅と同じように広州から入ることにした。大きな中国地図を見れば、広州はすぐ隣りのようだが香港から入ると、明らかに雰囲気が違っているのが分かる。大きな中国に来た!という感じ。「また広州に来たよ〜〜!!!」と心の中で叫んだ。じわじわと前年度の感動が蘇ってきた。嬉しい嬉しい


 いつものように宿探しから始める。前回泊まったあの素敵なホテルも良かったが、貧乏旅行なので、なるべく低価格のところを探す。ガイドブックを見ていると、ユースホステルなる文字を発見。しかも川沿い。安全性に問題なさそうだ。安全


 重いリュックを背負ってかなりの距離を歩いてホテルがようやく見つかった。それは白地の壁の割と清潔そうなホテル。お値段は100人民元/日。双人房(いわゆる2人部屋)しかなく、ベッド1台につき、50元ということだった。ここはドミトリーなのでそういう値段設定だったのだろう。もしも旅の途中で仲良くなった人がいて、部屋のもう片方のベッドをその人が使用するとしたら、お値段は半額となる。


 広州は気候が素晴らしく良かった。またホテル内も白い内装で固められていて清潔感たっぷり。広州と言えば、農民工たちの渦の中でジロジロと大きな目ん玉で見られ、恐る恐る通った広州駅前を思い出してしまうが、その感じとは全く別世界だった。


 それにしてもホテルの若い女性従業員は仕事が結構いいかげん。思い出したけど、当時それほど大きなホテルでもない場合、部屋の鍵は服務員といわれる人たちが開けていた。鍵ホテルのどの階にもエレベータ付近にフロントが設けられお客さんが外から戻ってくるとそのお客さんの部屋の前まで一緒に行き、鍵を開けてくれるのだった。それって24時間態勢のはず。ところがフロントに誰もいないことが多いのだ。どこをほっつき歩いているのか。部屋に入れず待たされること数知れず。呆れる


 夜は夜で遅くまでキャッキャと騒いでいる。私の部屋がフロントの真ん前だったので、うるさくて眠れやしない。こちとらお客なんじゃい。睨みをきかせに部屋のドアを開けると、昼間ひょんなことで知り合った旅人の台湾男子がフロントの若い子たちにちょっかいを出している〜!お客の方がこれじゃ、どうしようもないわ。安宿ってこういう目に多々合うよな。何が面白いんだか分からないが、そのいちゃいちゃは一晩中続いたのだった。あ〜、迷惑。困る困る

〜〜〜続く〜〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【62】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜

中国入境ビザを取得するまでの間、香港を気ままに歩いた。ガイドブックに載っているような普通の観光地にはいくつか足を運んだ。香港にまだ啓徳(カイタック)空港があったので、途中何回か飛行機が香港の上空をすれすれで飛んでいるのを見た記憶がある。


 取り壊されていまは存在しない九龍城と呼ばれていた「東洋の魔窟」に行ってみたいと思ったが、鈍感で当時は全くの怖いもの知らずの私でも流石に無謀と気づき、実際に足を運ぶことはしなかった。取り壊されると知っていれば、もしかしたら、行っていたかもしれない。


 九龍城に行かないかわりにどこか香港ならではのところをと探すみると、、、あった、あった。「重慶マンション」!!無法地帯といわれた九龍城とは規模も状況も異なるが、この雑居ビルもなかなか面白そう。とにかく香港の独特な雰囲気がぎっしりつまったところ。私が女神と崇めるFei Wong(中国の有名な女性歌手)が出演する香港映画『恋する惑星』の舞台にもなった。絶対行きたい!


 マンションの入り口にはいくつかの両替屋が店を構え、店員がこちらをジロリと見ている。それを横目に通り過ぎ2階、3階へと上がる。うわぁ、怪しい〜。突撃レポーターさながら、まさに謎の雑居ビルに突入といった様子。あきらかに別の国から来ていると分かる、目のギョロギョロとした人達がうろうろしている。彼らは何を待っているのか、何をしているのかよく分からない。こういう感じが当時私がイメージする香港のもう一面だった。


 勇気を振り絞って、さらに上階にあるインド人が経営するカレー屋でカレーを食べてみた。雑居ビルの中にちょっとした小料理屋もある。屋台にあるようなテーブルとピンク色の腰掛が雑多に並ぶ。初めて味わう本場(?)の味。日本のカレーと全然違う。いいな、こういう異文化体験。ていう雰囲気では実はなく、できれば早く食べ終わって此処を立ち去りたかった。周りにはこういうへんてこな外国人女性などいないし、相変わらず強面の人が数人うろうろしているのだ。やっぱり重慶マンション、怖かった。御馳走さま〜をして、早々にビルを離れた。


 そういえば、伝説の香港安宿では、旅人からいろいろと怖い噂話を聞かされていた。香港では、デパートが危ない。洋服を買うつもりで試着室で試着をしていると壁が急に開いてそのままさらわれてしまい、挙句の果てには遠いところに売られてしまうのだ。とか。中国での怖い話もあった。影のルートで行われる人身売買の話は一人旅中で私の行動をいましめる指針になった。


 そうだ、母親に誓ったんだ、無事に日本に帰ってくると。しっかり旅をしなければ。


*数年後に、沢木耕太郎氏の『深夜特急』(テレビドラマ版)でおそらく重慶マンションの中の映像らしきものを見ることができ、非常に興奮したのを覚えている。


〜〜続く〜〜

凛子的簡歴(凛子の履歴書) 【61】 〜大学卒業記念 冬の中国自由旅行〜


伝説の安宿で出会った人の中に、一人の男性写真家さんがいた。カメラこれから雲南省に行き、お祭りを撮影するのだと。撮影の旅ではいつもこの安宿を利用するらしく、その写真家さんの写真集が置いてあった。カメラ見ると、独特の色合いを醸し出す雲南の民族衣装を着た人々の姿があった。素敵な作品だ。

 当時雲南省の奥地は外国人に開放されている地域が少なかっただろうと思う。この写真家さんはこれから一人で雲南省の山奥に行って、何日も何日もそこでシャッターチャンスを待っているのか。なんとも途方もないことをしているなぁ。

 特に変な意味はなく、この人に付いていったら、通常なかなか行くことができないところへ行くことができ、さぞ面白い旅になるかもしれないと一瞬だけ思った。しかし、やっぱり私にはそんな途方もないことはできないと悟り、断念した。

 日本に戻ってから、本屋にこの写真家さんの写真集がいくつか並んで置いてあるのを見た。本当時写真家さんの作品には雲南省のものが多かった。後に、中国以外のアジアの各地を巡り、さらにいくつもの写真集を出版したようだった。


〜〜続く〜〜